第354回  血と骨 - 13 ヘモグロビンの資本主義

第353回 「血と骨 - 12 動脈・静脈」 より続く

  「イカの青い血の謎を知るには・・」

と始まったお話も長くなってしまいましたが、人の赤い血のお話は愈々今回で最終回です。

 さて、ヘモグロビン(= ヘム + グロビン)中のヘムは、静脈血においては鉄イオンが5つの窒素(N)に囲まれて居るのですが、肺で酸素を吸収すると酸素分子が6つ目の空席を占める事が分りました。


静脈血                      動脈血

 その結果、酸素分子に引っ張られて鉄イオンが0.4Å(オングストローム:1Å = の1千万分の1mm)と言うごく僅かに移動します。

 その微小な移動によって鉄イオンの科学的環境が変化して、吸収する光のエネルギー(波長)が変化した結果、静脈血と動脈血は異なった色合いを持つのでした。

 さて、赤血球の最も重要な仕事は上の様に「色を変える」事ではありません。それは結果に過ぎないのであり、「肺で酸素を十分吸収し、筋肉や脳みそなどでそれを放出してエネルギー源を供給する事」こそが本務なのです。でも、ここにヘモグロビンのジレンマがあります。肺で十分な酸素を吸収しようとヘモグロビンが酸素と強く結合してしまうと、体の各組織に運ばれて酸素を放出すべきタイミングになってもなかなか酸素との繋がりが切れないと言う事態になってしまいます。

 今、ヘモグロビンを Hb と言う記号で表したとすると、これと酸素分子(O2)の反応は下の様に表す事が出来ます。

 酸素の豊富な肺においては上の(a) 方向の反応が進む事が望ましい訳です。つまり、裸のヘモグロビンが酸素と結びついて Hb-O2 (動脈血)を産み出すのです。逆に、この運搬先である体の各組織では(b) 方向の反応、つまり、酸素分子をどんどん放出する事が望ましいのです。

 では、「必要な場所で、必要な仕事を」と言う都合のよい事をヘモグロビンはどの様にコントロールしているのでしょうか。実は、それがヘモグロビンの四量体構造なのです。ヘモグロビンは鉄を含むヘムと言う部分とグロビンと言うタンパク質が結びついて出来ているのですが、実際にはそれが4つくっ付いた構造で機能していることを先だってご紹介しました。


ヘモグロビンの4ユニット

 何の為にこのような四量体構造を取る必要があるのか不思議ですよね。その謎がこの「必要な場所で、必要な仕事を」に隠されていたのです。そこで、下のグラフをご覧下さい。

 この横軸は酸素の圧力を表しています。単位はTorr(トル)と言う奇妙な名前ですが大した問題ではありません。760 Torr で1気圧です。空気中には酸素は凡そ21% 含まれているので、普通の大気中の酸素の圧力は160 Torr です。それが肺の中では100 Torr 程度に低下します。でも、これでも人間の体の中では酸素が豊富な環境なのです。酸素を用いてエネルギーを生み出しながら運動している各組織においてはこの酸素濃度が30 Torr 程度にまで低下するのです。

 また、上図の縦軸はヘモグロビンの内何パーセントが酸素化されているのかを表しています。0% と言う事は全てのヘモグロビンが裸状態、100% では全てのヘモグロビンに酸素がくっついている事を表しています。そこで、酸素の圧力によってヘモグロビンの酸素化率がどの様に変化するのかを表したのが上図です。

 もし、ヘモグロビンが単体であった場合。肺においては95% 以上、殆どのヘモグロビンが酸素化されています。ところが、これが動脈によって各組織に運ばれたとしても、酸素化率は僅かに低下するだけなのです。つまり、酸素を欲しがっている場所に数%分 (b) の酸素を供給するに過ぎないのです。

 ところが、これが四量体だった場合には、酸欠状態の組織に運ばれて来るとヘモグロビンの酸素化率は一挙に低下します。つまり、大量(a) の酸素を放出する事が出来るのです。これこそ、「必要な場所で、必要な仕事を」の正しく理想的な挙動ではないですか。この機能をもう少し詳しく見てみましょう。

 ヘモグロビンの四量体が完全に酸素化されて行く過程は上の様な4段階から成ります。

  ・・・・・ 更に、a3、a4

 逆に、酸素を放出する過程も4段階に及びます。例えば、

  ・・・・・ 更に、b2、b1

ここで興味深いのは、例えば酸素を吸着する過程 a1-a2-a3-a4 は同じ様に淡々と進んで行くのでは無いと言うことです。それぞれの反応速度は

  a1 < a2 < a3 < a4

の順なのです。裸のヘモグロビン(4Hb)が酸素1分子(O2)を吸着する(4Hb-O2)と、更に酸素との親和性が高まって素早く2分子目の酸素を吸着して4Hb-2O2 になり、そうなると更に酸素との親和性が加速度的に高まるのです。

 例えば、酸素3分子を吸着したヘモグロビン四量体(4Hb-3O2) と裸のヘモグロビン四量体(4Hb)が肺で酸素分子と出会ったとします。

 すると、酸素分子は70:1 と言う圧倒的な確率差で4Hb-3O2 と選択的に結合するのです。酸素と言うお金を持ったヘモグロビンはそれを元手に更にお金持ちに肥え太って行くと言う訳です。

 逆に、酸素を1分子ずつ放出して行く過程 b4-b3-b2-b1 にも傾きがあり、

   b4 < b3 < b2 < b1

の順です。つまり、手持ちの酸素の数が少ないヘモグロビンはより簡単に酸素を放出する傾向があるのです。

 例えば、4分子の酸素を持ったヘモグロビン4量体(4Hb-4O2)と1分子の酸素しか持たぬ4Hb-O2 が酸素不足状態の組織に運ばれたとき、これまた70倍以上の確率で1分子しか酸素を持たぬヘモグロビンが酸素を放出するのです。酸素と言うお金を僅かしか持たない貧しいモグロビンの方がお金がなくなるのはより早いと言う訳です。う〜む、貧しき者はより貧しくという資本主義の論理はこんな所にも徹底しているのですね。

 つまり、4量体のヘモグロビンでは、肺で酸素が吸着し始めるとそれが一気に加速され、逆に体の組織において一旦酸素を放出し始めるとそれもまた加速されるという非常に巧妙な仕組みを発揮できるのです。こうして、「必要な場所で、必要な仕事を」と言うヘモグロビンの作用が保障されているのです。

 それでは、同じヘモグロビンでも単体から四量体になることによってどうしてこんなに巧みな機能を発揮できるのでしょう。それが先にご紹介した鉄イオンの0.4オングストロームの移動なのです。

 裸のヘモグロビン4量体が1分子の酸素を吸着すると、ヘム中の鉄イオンが0.4オングストロームと言うごく僅かの長さだけ移動します。この鉄イオンにはグロビンタンパク質中の決まった場所のヒスチジンと言うアミノ酸がくっついています。だから鉄イオンが移動すると、ヒスチジンもそれに引っ張られて移動します。すると、それに繋がっている長い鎖状のグロビンタンパク質もズルズルと引っ張られます。すると、それに隣り合うグロビンタンパク質も移動して・・ と言う具合に4量体全体の構造が変化して、より酸素を受け入れ易い形になるとされています。つまり、酸素と言うごく小さな分子を吸着しただけで、ヘモグロビンと言う巨大分子は大きく構造を変え、4量体と成る事でそれが更に増幅されると言う仕組みなのです。動脈血・静脈血で色を変えることが出来るというのも、この4量体による増幅機能があればこそと言えます。

 以上、人のヘモグロビンの構造・機能・発色の仕組みを見て来ました。それでは、これらに対応するイカの血の構造・機能・発色の仕組みはどうなっているのでしょう。愈々本論に突入です。(「って、今まで序論だったのかよ」と一人突っ込み)


参照:

第355回 「血と骨-14 銅のまやかし」に続く

2009/12/26 記

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